NPS塾長、横山英樹によるブログです。


三度目の登板

 原辰徳氏が巨人軍監督に復帰しました。これで三度目の登板です。彼とは年が近く在学期間もかぶっているうえ、神宮球場に母校の応援の際に目の前ので三塁手としてプレーする姿を見たこともあるため親近感があります。彼を初めて見たのは東海大学在学中の大学選手権準決勝で自分の母校と対戦した時です。我々が応援している三塁側スタンドの前で三塁手としてプレーしていました。後に中日にドラフト1位で入団した高橋投手から、見事に2塁打を二本打ったことを覚えています。試合には勝ちましたが彼を抑えることはできませんでした。巨人入りした後の彼の活躍は綴るまでもありませんが、野球殿堂入りした監督として低迷している巨人を立て直してくれることでしょう。彼の手腕に期待してやみません。

普及拡大・増強

 複数の外郭組織に所属していますが、どの組織でも会の活性化のため会員の拡大・増強が不可欠で、ここに注力しなければなりません。ただかなりの労力を要するため、活動に消極的な人が少なくないのが現状です。組織のリーダーは任期制で何年も担当するわけではありませんが、何の報酬もないボランテイアですから、本業のように真剣になれないのは致し方のないところかも知れません。私はボランテイアは『徳を積む』事だと理解していますので、周りがどう感じようとも自主的に粛々と行動しています。「よくやるよ」と思われているかもしれませんが、今後も自分なりに積極的に続けていく所存です。

私の職暦(バイト暦) 最終回

 大学3年に松戸市に引っ越して、いろいろとアルバイトを探しましたが、時給や勤務地の関係でなかなか見つかりませんでした。そんな時、日刊アルバイト情報(懐かしい)に塾講師の募集がありました。当時塾講師の時給は1500円以上でした。通常の時給500円と比べるとかなり高額でしたので、応募者も多く倍率も高かったと記憶しています。ただ勤務地が茨城県取手市とあったので、それでは論外と思ったのですが、最後に松戸から快速で20分と記載されていたのです。それなら通えると考え早速応募して採用されました。当時は塾に通う生徒が激増し始めていた時代でした。また今のような個別塾ではなく、ほぼ集団指導の塾ばかりでした。大学1年の時に少々経験していたとはいえ、ほぼど素人の私が研修らしい研修も受けずに、1クラス20人近い子供達の教鞭を取っていたのですから、少々いい加減でも何とか通る時代だったのだと思います。ただ自分のいい加減な授業を真剣に聞いてくれる生徒の純粋さやひたむきさと、子供が大好きという自分の性格がマッチングしたのでしょう。この仕事の面白さにまさにはまってしまったのです。すっかり天職と感じ、3年の時は週6日、4年の時は毎日通勤していました。大学はさぼりまくりでしたが、大過なく無事卒業。そのままその塾に新卒で勤めることとなりました。当時塾の教師に新卒でなる人は皆無だったと思います。同級生たちにいろいろと本気で心配されましたから。そしてあれから38年。この仕事一筋です。随分長い年月でしたが、過ぎてしまえばあっという間です。子供達に「こんなお爺さんに教わるのは嫌だ」と言われるまで、この仕事を続ける覚悟です。以上で『私の職暦(バイト暦)』にピリオを打たせていただきます。

私の職暦(バイト暦) その5

 大学2年になり、地元で経験したパチンコ店で本格的にアルバイトとして働くことにしました。ほぼ毎日働きました。その際世の中の汚いことも色々と学びましたし、年配のお客さんに気に入られて色々なところに連れて行ってもらいました。それなりの収入にもなり、大学は必要最低限しか行かなくなってしまいました。それでも単位を落とすことなく、3年に進級した際に御茶ノ水校舎になり、通学が遠距離になったことと狭くて汚いアパートから引っ越したい願望が相まって、稼いだお金で千葉県の松戸に引っ越したのです。パチンコ店も当然辞めざるを得ませんでした。そして3年の4月に現在の天職に出会うことになるのです。To be continued.

 

私の職暦(バイト暦) その4

 東京に戻りましたが、ちょうど9月より奨学金が支給されるようになった安心感からか、バイトへの腰が重くなってしまい、本格的なバイトではなく、工事現場での車の誘導など日雇いの仕事が中心で、何とか生活を凌いでいました。本当に困った時には今とは全然違いますが、知る人ぞ知る新宿のゴールデン街でホストを3日間やったこともあります。その後11月からたまたま小さな塾の講師に採用されました。今の原点ですね。ただフランチャイズの塾で生徒が少なく、3か月で閉鎖となってしまいました。このように大学1年生の時はいろいろな職種を体験し、お金を稼ぐ大変さを知るとともに、年の違う人との付き合いを通して世の中の仕組みを始めて学ぶことができたのです。そして2年生になり…。 To be continued.

私の職歴(バイト暦) その3

 実家でまず始めたのは福武書店(現在の進研ゼミ)の添削者でした。いわゆる「赤ペン先生」です。1枚を1時間以上かけて添削して250円ほどでした。慣れてからはもう少し早く添削できるようになりましたが、自分の空いている時間にできるメリットはあったものの、決して効率の良いバイトではありませんでした。同時に行ったのはパチンコ屋のホール係です。短期では受け付けてくれないので浪人生と偽って採用してもらったのです。早番と遅番がありましたが、一日8時間勤務で結構重労働でした。一緒に働く人たちは、ほとんどが年配者でしたので、ずいぶんと可愛がってもらいましたし、それなりに世の中の仕組みも勉強させてもらいましたが、9月下旬に大学が始まるので、足を骨折したことにして辞めたのです。再び東京でアルバイトを探すことになりました。To be continued.

私の職歴(バイト暦) その2

 大学進学後はアルバイトで生活費を稼ぐ必要があったため、4月より市ヶ谷の喫茶店に勤めました。週3回ほどで時給450円だったと記憶しています。夕方6時から10時閉店までの勤務で、注文取りに配膳、食器洗いと会計などをしてました。そこで生まれて初めてゴキブリと遭遇たのです。生まれて一度も見たことがなかったため、最初はビックリして大きく飛びのいてしまいました。喫茶店が入っていたビルは築年数が古いせいか、控室にはいつもゴキブリが相当数いて本当に嫌でした。そのせいもあり3か月ほどで辞めました。ちょうど大学が試験で忙しくなり、それが終わると夏休みとなり実家に戻る頃でした。そして実家の札幌で2か月間限定のアルバイトを探すこととなったのです。To be continued.

私の職歴(バイト暦) その1

 現在の仕事は在学中から始め、今日で38年になります。したがって職歴はたった1つです。ただ当時の若者同様、社会人になるまで色々なアルバイトをしてきましたので、そのバイト暦をはるか昔の記憶をたどって時系列に綴らせていただきます。人生最初のアルバイトは高2の夏休み中に近くの生協(北海道では現在もヤオコー規模の生活協同組合=生協が結構あります)での「お皿売り」でした。お皿を中心とした瀬戸物を元気よく声を出して、客を呼び込み買ってもらうのです。最初は恥ずかしくて声を出せませんでしたが、やがて慣れるにつけ「威勢の良いお兄ちゃん」となり、1日で3万円ほど売り上げた記憶があります。最高値が300円ほどでしたから、かなり売れたことになります。日当は忘れましたが3000円ほどもらったのかもしれません。商売は売れると楽しいものだと思いました。その後は浪人時代に3か月ほど、近所に住む中1の家庭教師をしたことがあります。稼いだ3万程は大学の受験料となりましたが…。本格的なアルバイトは勿論大学進学後です。 To be continued.

急に秋深く

 ここ2,3日の涼しさで、猛暑と台風で本当に大変だった夏が終わったなあと思いました。昨日など背広を着ていないと肌寒く感じたほどです。晩夏と初秋を通り越していきなり秋ですね。食卓には秋を表すものが並んでいましたが、台風によるフェーン現象などで30度以上の夏日もあり、気温では秋を感じることが少なかった感がします。でも日がすっかり短くなり、朝5時や夕方5時半には真っ暗ですから、季節は確実に秋から冬へと向かっていますね。寒いのが苦手な私には嬉しくない季節がまた来ます…。

圧巻

 昨日の菅野投手による史上初のノーヒットノーラン達成はまさに『圧巻』でした。コントロールが抜群で打者はなすすべもなく打ち取られていました。捕手のリードもさることながら、自身による組み立ても素晴らしく、打者はあっという間に追い込まれ、球種を絞ることすらできないようでした。投手はスピードも大事ですが、コントロールが第一で、いかに打者のタイミングを外して打ち取るかだと考えます。緩急をつけ打者を翻弄して打ち取る快感は投手の醍醐味です。先々週から二週続けて試合があり、打者のタイミングを外して打ち取ることで二試合とも勝利できました。私はこれができなくなったら引退するつもりです。