NPS塾長、横山英樹によるブログです。


夏の晴れ間

 関東では8月なのに雨が降り続き、少し晴れただけでニュースになるという珍現象が起きています。梅雨の晴れ間ならぬ夏の晴れ間です。暑さが苦手で夏バテ気味の人には過ごしやすい夏かもしれませんが、夏に商魂を傾けるビール業界やクーラーなどの家電業界、海の家やプール運営側にとっては怨みの雨かもしれませんので、何事も一長一短だと感じます。個人的には暑い夏を希望しますが、最近日本は熱帯化しているように思えるので今年くらいがちょうど良いのかもしれませんね。

県民or道民?

 私は北海道で生まれ高校生まで道民、大学1,2年生は東京都民、3年生から今日まで千葉県民です。都民としての2年間は例外的なもので、道民として19年、千葉県民として37年。期間としては圧倒的に県民としての方が長いのですが、故郷は北海道で道産子という事実があるため、どちらかと言えば北海道の方に想い入れが強いです。ただ帰りたいとか、また住みたいとは全く思いません。千葉県の方がずっと住みやすいと感じています。双方とも一長一短があり、『住めば都』なのでしょうが、寒さが大の苦手の私には北海道の冬はもう経験したくありません。温暖な千葉県でも冬は沖縄や暖かい国で過ごしたいと思うほどですから。しかし弟を始め親戚のほとんどは北海道在住のため、年に1,2回は来道して、親戚に会ったり友人と旧交を温めたりしています。結論的には、想いは北海道にあるが実際に暮らす現実の世界は千葉県というところでしょうか。故に県民の部分が大きいのでしょうね。当たり前ですが戸籍上は県民ですから。

72回目の終戦の日

 終戦の日が72回目を迎え、この1年間でまた多くの戦争体験者が鬼籍に入られました。学徒出陣をされた方は90歳以上、戦争体験を鮮明に記憶されている方でも80歳前後となり、高齢化がますます進んでいます。今や私も含め祖父母が戦争を知らないという世代が主流となりつつあります。明治・大正生まれの方々はそう遠くない日に旅立たれ、30年もすると戦争を知らない世代ばかりになることでしょう。時の流れの中では致し方のないことではありますが、子供の頃に見た片方の手足がなく、復員服を着て軍帽をかぶりハモニカをふきながら立っていた方(おそらく物乞いをされていたのでしょうが)の姿が強烈に脳裏に残っていて、この時期になると昨日のことのように思い出されます。日本だけではなく、世界でも平和な世の中となることを強く願わずにはいられません。

43年前 その三

 三日続きとなり恐縮ですが、もう少しお付き合いください。救急車で運ばれた父は医師より悪性の直腸癌と診断され、余命半年と言われたそうです。当時私はそのことを教えられなかったので、何も知らずに新たな環境で勉強に取り組みましたが、田舎とは違う都会の学校のレベルの高さにショックを受けました。苫小牧では学年一桁だったのに、転向した学校ではクラスで5番に入れるかどうかだったのですから。ただ自分の目標があったので、入試までの半年間テレビもほとんど見ることなく勉強しました。その結果何とか志望校に合格できました。一方父親は手術後の結果が良好で、半年後には奇跡的に仕事に復帰できるほど回復したのです。私は高校入学後は叔母さんの家から離れ、学校の近くの3畳もない小さな部屋に下宿してそこから高校に通いました。当時は皆そうだったと思いますが台所とトイレは共同でした。もちろん風呂はないので銭湯を利用しましたが、お金があまりないので毎日行くことはできませんでした。また食事は朝と夕食は下宿のおばさんが作ってくれましたが、育ち盛りの私には質量とも少なくて辛い食生活でした。昼食は格安の学校の食堂で済ませ、休みは二食で過ごしたものです。洗濯は石鹸と洗濯板を使って自分で手洗いで行いました。こうして私の一人暮らしと高校生活がスタートしました。今から42年前のことでまだ15歳でした。今思い返すと15歳の少年がよくそんな決断をしたものだと回顧するのと同時に、自分の原点がそこからスタートしたのだという想いがあります。その後の私と父親の話はまたの機会に綴ります。

43年前 その二

   今日は終戦の日ですね。太平洋戦争の記事や戦争体験者の話を見聞きする度に、胸が詰まるような想いがします。自分の前世がその当時でもあるかの如く感じるときもあるくらいです。多くの方々の犠牲のうえに現在の我が国があることを再確認しています。
   さて昨日の続きです。43年前の昨日に家庭を離れて叔母さんの家にお世話になったのですが、旅立ちの当日、警官の父親は朝早くに出かけて行きました。しっかり勉強しろよ的なことを言っていたと思います。9時過ぎに荷物を持って母と駅に向かう直前のことです。父親の車が猛スピードで家の前に止まり、トイレへと駆け込み、そのまま出てこないのです。お父さん大丈夫?と聞くと大丈夫だから早く行けと返事があったので、汽車の時間もあり私は家を出で叔母さんの家に向かいました。父親はその後救急車で病院に運ばれ、緊急手術を受けたのですが、そのことは私には知らされませんでした。
to be continued

43年前

   43年前の今日は私にとって、忘れることの出来ない1日です。この日は家庭から一人離れて札幌市の高校を受験できる叔母さんの家に旅立った日です。その当時は苫小牧市に住んでいました。学年上位の成績だった私は、市内の高校では有名大学進学を考えた時に、進学実績を見てもレベル的に不利だと悟り、札幌市の優秀な高校に進学を希望していました。しかし、学区外のため受験出来ないので、父親に学区内にある叔母さんの家にお世話になって、転校して受験したいと頼みました。中三になった四月の時です。父親からは何を考えているのだと一笑に付されたため、諦めていたのですが、八月半ばにいきなり叔母さんには話をつけてあるから明日にでも行けと言われたのです。青天の霹靂でしたが、嬉しい気持ちで一杯でした。すぐに準備して43年前の今日に札幌市の近郊にある江別市の叔母さんの家に向かったのです。
to be continued