大人になれなかった大人たちに想うⅢ

 最終回は『ひきこもり ニート』について綴ります。社会に適合できない病の一種と捉える意見もありますが、1日1ドルで生活している極貧の国に生まれたなら、このような病などにかかるのでしょうか?わが国でも戦後の食糧難の時代では生きること、食べることがまずありきで、『ニート』であれば餓死し、『ひきこもる』にしても、その場所すらなかったのですから、このような現象は起きえなかったのが事実でしょう。厳しい意見を言わせていただければ、一種の『贅沢病』だと思います。衣食住が保証されての病?ですから、極貧国の方々はこの状況を聞いたら何と思うのでしょう。以前講話で聴いた話ですが、貧しい国の子供達に将来の夢を聞いたら「日本人になりたい」と答えたそうです。ひきこもりの方に聞かせてあげたいです。自分を悲劇の主人公と考える人は自分とは比較にならないほど大変な人が世の中に、特に海外には億を超えて存在しているということを認識してほしいです。このようなことを言うと「私の気持ちなど誰にもわからない」と反論されるかもしれませんが、そのような方には「ではあなたは私(他の人)の気持ちがわかるのですか?」と問いたいです。「私ばかり…、私は頑張っているのに…」など自分中心で他をあまり顧みない物の見方が自分を狭い視野に落としている気がしてなりません。しかし、このことを助長しているのが衣食住を保証している親御さんたちだと考えます。この責任も大きいと考えます。我が子可愛さからこのような愚挙を許すのでしょうが、私は理解に苦しみます。『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』は死語になったのでしょうか…。