富士山における「弾丸登山」対策で、今年より軽装登山禁止や時間による入山規制が導入されました。毎年多くの遭難者を出していますので、その対策にも期待されています。登山を一種の観光のようにとらえている方が少なくないと考えます。登山は常に危険を伴います。健康に良いなどと安易に考えることは命の危険につながりかねません。十分な準備が不可欠です。
お盆は仏教の行事で先祖の魂を迎えるための期間です。日本では一般的に8月15日を中心とした4日間行われます。お盆は仏教の盂蘭盆会に由来する行事とされています。盂蘭盆会は釈迦の弟子である目連が母親を救うために行った施餓鬼に由来します。盂蘭盆会は飛鳥時代に行われたという記録が残っており、平安時代には宮中で重要な行事として定着しています。一昨年自分のルーツが東北にあると知り、昨年角田市にて曾祖父の戸籍をとったことを綴りました。北海道民はすべて入植者ですので、お盆や先祖への考え方が本州の方とは少し異なっているように感じています。
終戦の日にちなみ、「知覧特攻平和会館」の話をします。20年ほど前に一度だけ訪ねたことがあります。入る前からとても不思議な感覚があったことを覚えています。特攻に散った多くの若者が特攻前に両親に書いた手紙を読んだときは涙が止まりませんでした。心の芯から感情が揺さぶらされたのは、この時が初めてです。もしかしたら自分は特攻員の生まれ変わりなのかもしれないとも感じました。お国のために若くして散った彼らのことを思うと、あまりに恵まれすぎているのに、不満ばかりを抱いている今の日本人の状況に嘆息する自分がいます。
今は施設にいる母が以前一緒に住んでいた時に、趣味とまでは言えませんが、ボケ防止だと10個以上完成品を自分の部屋に飾っていたことを覚えています。あれから10年ほど、施設に入って5年以上経過したこともあり、最近は老人性認知症がかなり進行しています。毎月面会に行っていますが、そのこともほとんど覚えていない状況になっています。致し方ないことですが、ジグソーパズルを目にすると当時の元気な母の姿を思い出し、何とも言えない気持ちになります。
今月も夏と共に終わりに近づきますが、もう15年ほど大好きなダイビングをしていません。素潜りが好きになったこともありますが、ここ最近は潜っていません。実は3年ほど前にダイビング用の重機材と軽機材を売却しました。妻が泳げないにもかかわらず、無理やり沖縄や諸外国で体験させたのが懐かしいです。理由の一つは最近和食以外受け付けないため、和食が少ない諸外国に行けないこと、また年齢のため拒否される可能性があることです。水深30mまで潜れるアドバンスの免許まで持っているのですが…。確かに年齢的に厳しいかもしれませんね。年齢と相談しながら素潜りを楽しみます。
全国各地で毎日のように最高気温更新と水不足の知らせ届いていましたが、一転して豪雨が続いています。せっかくの3連休も計画が大きく狂った方は多いことでしょう。天候を恨んでも詮無きことですが、異常な暑さと豪雨による土砂崩れや浸水などの災害を目にするたびに、この先日本は、いえ地球はどうなって行くのだろうという不安が募ります。
なぜ多くの民間人が自決を選んだのか。1941年東条英機陸軍大臣が出した「戦陣訓」には「生きて虜囚の辱めを受けず」とあり、捕虜となることを禁じました。米軍につかまれば男性は殺され、女性は乱暴されると教え込まれたからで、兵士も民間人も追いつめられると自決を選んだのです。沖縄戦でも多くの民間人が犠牲となりました。県民の4人に1人と言われます。推計ですが、1937年の日中戦争以降の兵士の戦没者230万人は終戦に向かうほど増えてますが、45年以降だけで全体の55%を占め、126万人に上るとされます。一方民間人の死者は80万人で、空襲や原爆、沖縄戦などによる戦争末期の死者が大半を占めています。結果論ですが、早期の降伏が必要だったのかもしれません。私の世代は戦前生まれで、小中学生の時に戦争を体験した両親に育てられています。戦争の話をするたびに涙ぐんでいた母、米軍に対する怒りを隠さなかった父が今も忘れられません。戦争に関する話には尽きることがないのですが、これ以上綴るのは精神的に厳しいので、一旦戦争の話は休止させていただきます。しかし戦争による悲劇を現在も進行中で繰り返す人間は何なのでしょう…。
1945年2月米軍が上陸して、国内初の陸上戦闘となったのが『硫黄島』です。映画にもなった激戦で、日米双方とも多くの犠牲者が出ました。ひと月にわたる戦闘で日本軍2万1900人が戦死し、米軍の死傷者は29000人に上りました。硫黄島を指揮した栗林中将の兄の孫である栗林直高さん(79)は、今も硫黄島で遺骨収集に参加しています。昨年末で収集された遺骨は1万710柱で、半数は未帰還です。「遺骨が残るうちは戦争は終わっていない」栗林さんはこう語っています。To be conntinued.
今日は長崎に原爆が投下された日です。改めて多くの犠牲者の皆さんのご冥福をお祈りいたします。戦後80年が経過するなか、戦争の記憶を風化させることがないことを切に願います。戦況が悪化する中、全滅を美化する言葉『玉砕』が使われました。1944年6~7月にかけて「サイパン島」が15万人以上の米軍に攻撃されました。約5万人の日本軍はほぼ全滅し、バンザイクリフに追い込まれた多くの民間人は飛び降り自殺を選択しました。また近隣の「テニアン島」も攻撃を受け、5000人以上の兵士が戦死し、民間人3000人以上が自決しました。悲惨すぎる結果ですが、これは終わりの始まりでした…。 To be conntinued.
戦後80年が経ち、明治生まれの男性はいなくなり、大正生まれや昭和一桁生まれの方は激減しています。戦争の記憶がある方は本当に少なくなっています。各地で戦った元日本軍人は1401人に減り、平均年齢は100歳になりました。語り部は早晩いなくなります。残った私たちが、今後この記憶を次の世代にどう残していくかが真剣に問われていく時代になっていると個人的に強く感じています。個人的見解ですが少々語らせてください。To be continued.