彼は野球が日本に導入された最初の頃の熱心な選手の一人でした。1889年に喀血でやめるまで続けました。ポジションは捕手です。他のスポーツには全く無関心であったのに、野球だけには夢中になり、自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともありました。これはベースボールを野球と翻訳する4年前のことで、読み方こそ異なりますが、「野球」という表記を最初に用いた人物とされます。あくまで自身の雅号として使っていたものですが、日本初の野球小説を執筆したり、文学を通じて野球の普及に大きく貢献しました。その功績が評価され、2002年に野球殿堂入りを果たしています。愛媛県には野球好きの子規にちなんで、野球資料館「の・ボールミュージアム」があります。